八十八&一二三の文楽れんらくちょう

人形浄瑠璃文楽に関する情報を集めております。 情報お待ちいたしております。

カレンダー

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1人でも多くの方に文楽関連情報をお届けしたく、ランキング参加中です。
にほんブログ村 演劇ブログ 古典芸能へにほんブログ村
FC2 Blog Ranking


【産経新聞】有吉佐和子「一の糸」 大阪・御霊神社 文楽黄金期のにぎわいしのぶ

【産経新聞】より。
有吉佐和子「一の糸」 大阪・御霊神社 文楽黄金期のにぎわいしのぶ(産経新聞 9月4日(土)15時20分配信)

 コンクリートの照り返しがまぶしくて、思わず日傘ごしに太陽を見上げた。大阪・御堂筋を、淀屋橋から南に下り、西に入っていくと、近松門左衛門の「冥途(めいど)の飛脚」にも出てくる淡路町がある。さわさわと緑の木々が風に揺れる音が聞こえたと思ったら、高層マンションの谷間に突然神社が現れた。鳥居のたもとに文楽の床本をかたどった碑が見える。

 御霊(ごりょう)神社である。明治から大正にかけて境内に文楽の常(じょう)打ち小屋があった。「御霊文楽座」という。近代文楽の黄金期の本拠地となった小屋。豊竹山城少掾、(やましろのしょうじょう )四世鶴澤清六、吉田文五郎…文楽史に輝く名人たちがその舞台に立った。

 有吉佐和子さんは文楽を題材にした小説「一の糸」で、ヒロインの茜が恋しい三味線の露沢清太郎(後に露沢徳兵衛)を追って東京から御霊文楽座にたったひとりでやってきた場面をこう描いている。

 《気がついてみると、御霊の文楽座はどの桟敷も満員で、三枚目の楯大夫と露沢清太郎の地元での人気の程がしれるというものであった。(略)でん、でん、ででん。と、清太郎の撥(ばち)先から太棹(ふとざお)の重々しい音が弾き出されていた。一の糸が響く度に茜は全身を揺すぶられるのを感じた。》

 「一の糸」は、厳しい芸の道に生きる文楽三味線の名人・徳兵衛と、彼の弾く太棹三味線の一の糸の音色に魅せられ、いちずに愛し、後妻となって支え続ける茜の波瀾(はらん)万丈の半生を、大正から戦後の激動の文楽の世界を背景に描いている。

 徳兵衛のモデルは四世清六といわれている。

 文楽三味線の人間国宝、鶴澤清治は昭和28年、7歳のとき、清六に入門した。「ざくっという包丁で何かを切っているような、あのすごい音はいまも僕の耳に強烈に残っています。あんな音は誰にも出せません」

 その四世清六が活躍した御霊文楽座の開場は明治17年であった。

 宮司の園文夫さんによると、本殿に向かって左側に建つ儀式殿のあたりに文楽座は建っていた。

 実はこの御霊神社、江戸時代には境内に「宝珠寺」という寺もあり、境内もいまより広かった。ところが明治初年の「神仏分離令」で寺は移され、土地も少し没収された。

 「曾祖父(園八尋さん)は何とか活性化させようと、当時人気の文楽の小屋を境内に建てたそうです。ここは船場の中の北側で、大店の商人が多く住んでいた。上方の文化を育てる土壌があったのでしょう」

 境内には錦影絵を上演する小屋などもあり、大いににぎわったという。当時の文楽座の写真を見せてもらった。桟敷にぎっしりと着物姿の見物客が座り、息をこらして舞台を見ている様子がうかがえる。

 御霊文楽座は大正15年、火事で焼失。その後、文楽の本拠地は、椅子(いす)席が完備された四ツ橋文楽座、昭和31年には道頓堀文楽座(後に朝日座)に移り、59年、日本橋に国立文楽劇場が開場する。

 《逢いたかった。たった今、茜の躰(からだ)を揺り動かした一の糸を、撥先一つで操ることのできるその人に、ただもう逢いたかった。》(「一の糸」より)

 でん、でん…。蝉(せみ)しぐれにまじって太棹の音色が聞こえた気がした。(亀岡典子)

 【有吉佐和子さんと文楽】

 昭和を代表する女流作家、有吉佐和子さんは日本の古典芸能にも深い関心と造詣を示し、文楽では「一の糸」をはじめ、「人形浄瑠璃」、日本舞踊では「連舞」「乱舞」などの作品をのこした。特に文楽とは縁が深く、雌狐(めぎつね)が人間の男に恋をするというファンタスティックな新作文楽「雪狐々姿湖」も書き下ろし、現在も人気作品として度々上演されている。



1人でも多くの方に文楽関連情報をお届けしたく、ランキング参加中です。
にほんブログ村 演劇ブログ 古典芸能へにほんブログ村
FC2 Blog Ranking


FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。