八十八&一二三の文楽れんらくちょう

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【毎日新聞】わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/219 相合橋 /大阪

【毎日新聞】より。

わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/219 相合橋 /大阪(2011年8月11日 地方版)


 ◆大阪市中央区

 ◇なぜか縁切り橋と呼ばれ 悪名払しょく?橋上に広場
 日本橋を西へ歩けば、道頓堀の繁華街だ。しかし、このかいわいも様変わりしたものだ。

 私が学生時代は道頓堀にも、さらに西の日本橋かいわいにも何軒か古本屋があって、よくのぞいたものだが、とうになくなった。相合橋筋にも1軒あり、落語の書籍をなんべんか買った覚えがある。この古本屋はまだあって、先日のぞいたら、おばちゃんが店番していた。落語関係も相変わらず充実していて、よく残ったものだとうれしくなった。

 相合橋は「あいおいばし」と呼ばれているが、字面通りなら「あいあいばし」。正しくは「あいあうばし」と読み、橋にもそう刻まれている。

 大阪案内人の西俣稔さんの解説。「最初に架けられた時は、中橋という名前でした。道頓堀川の真ん中あたりだから。その後、長堀川の橋に、同じ中橋という名前を付けてしもたので、名前を変えたんです」

 いわれにも諸説あり、「中橋と中橋が相対するから、とか、道頓堀の芝居町と、川を挟んで反対側には色町があって、男と女が会ってたから、とか」。なかなか色っぽいやないですか。

 最初は江戸時代の1680年代に架けられたらしく、近松門左衛門の「心中重井筒」に「中橋」が出てくる。「八百八橋物語」(松村博著)によると、1703(元禄16)年の書物に「相合橋」の名が見える。ところが、出会いを連想させる名前なのに、なぜか縁切り橋と呼ばれて、婚礼の行列は絶対に渡らなかったという。

 「心中重井筒」の筋自体が、お店(たな)の入り婿でありながら遊女と縁が切れず、女を刺し殺し、自分も井戸に落ちて死んでしまう--という、救いようのない話だ。

 戦災で焼け落ちたが、地元が寄付金を募って1950年に木橋として架けられた。いかに地元の愛着深い橋だったかがわかる。62年に鋼の橋に替わった。73年には橋の幅を広げ、縁切り橋の悪名を払しょくしようとしたわけではなかろうが、橋の上に憩いの広場ができた。

 北詰めに石碑が一つ建っている。「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」。大正から昭和初期にかけて活躍した文人、食満(けま)南北の句碑だ。1961(昭和36)年に建立された。建立発起人代表は、友人の日本画家、菅盾彦。ほかの発起人には松竹の白井信太郎、歌舞伎役者の片岡仁左衛門、中村雁治郎、文楽の竹本綱大夫、史家の牧村史陽ら、そうそうたる名前が並んでいる。

 南北が詠んだ「はし」は、西隣の太左衛門橋のことだ。芝居好きの南北は、島之内の自宅から太左衛門橋を通って道頓堀の芝居小屋へ通い、ついに雁治郎の座付き作者となった。戦災で焼失した橋が戦後、復活したのを喜んで作った句だという。初めは太左衛門橋に建てられたが、こっちに移ったようだ。

 相合橋の南詰めの、先の古本屋のある相合橋筋のかかりは更地になっている。映画館「道頓堀東映」の跡で、かつての道頓堀五座の朝日座がここにあった。西にビルを一つ挟んで、また更地。ここも道頓堀五座の角座の跡だ。

 人通りは多いものの、はて、南北が句に託した願いは、かなっているのだろうか。【松井宏員】


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