八十八&一二三の文楽れんらくちょう

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【産経新聞アーカイブ】[大阪の20世紀](39)文楽 400年の教養、存続の危機越え大輪の花

【産経新聞アーカイブ】[大阪の20世紀]より。

(39)文楽 400年の教養、存続の危機越え大輪の花(2011.10.28 10:00)


■産経新聞アーカイブ(1999年05月02日 大阪府下版に掲載)

 アレアレ花が流るるは、嬉しや久我様のお身につつがのないしるし。私は冥土へ参じます…。未来で添ふて下さんせ

 来世での契りを願う娘心を、太夫がせつせつと語りあげる。介錯(かいしゃく)を待ち両手を合わせる文楽人形。太棹三味線の響きが、哀感をかきたてた。

 一九五六年(昭和三十一年)十月二十八日、東京・新橋演舞場。文化庁主催の秋の芸術祭で上演された文楽「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」山の段は、舞台上手と下手に設けられた二手の床で、双方の太夫がのどを競いあう大舞台となった。

 吉野川をはさんで紀の国・和歌山側にある背山は大判事の領地、対岸の大和の国・妹山は太宰の領地である。両家にはそれぞれ娘と息子がいて相思相愛の仲だが、親同士のいがみあいで会うこともままならない。来世を信じ、二人は互いに相手を思いやりながら命を絶つ。

 二百近い文楽の演目の中でも、語りを受け持つ太夫が、二手に分かれて掛け合いで語るのは、この舞台だけ。特別の演目が選ばれたのは、文楽が長い歴史の中で、この日、とびきりの慶事を迎えたからにほかならなかった。


■起こり
 文楽の歴史は十七世紀初頭の江戸時代初めにさかのぼる。浄瑠璃と人形操りが合体、各地にさまざまな人形浄瑠璃の座ができ、庶民の娯楽として広がりを見せた。とりわけ十九世紀の文化年間に、植村文楽軒が大坂の高津に文楽座を開いて人気を博した。

 変動のきざしは二十世紀とともに訪れた。経営がたちゆかなくなった文楽座は明治四十二年、新興の松竹合名会社(現・松竹)に興行権を移して再興を図った。

 松竹の経営下、伝統を守った文楽は大正期を経て昭和を迎え、二十年三月十三日深夜、第一次大阪大空襲の洗礼を受ける。米軍のB29から降り注ぐ焼夷弾で大阪の中心部は焦土と化し、文楽座も外壁だけになった。翌日、四世竹本津大夫が駆け付けると、師匠で座の代表者の「紋下」でもあった豊竹古靫太夫(山城少掾)のまねき(看板)だけが奇跡的に焼け残った。しかし、続く空襲で文楽の命である人形や衣装はことごとく焼失した。

 もっとも、文楽は戦禍から奇跡的に立ち直る。翌年、文楽座は復興、他の劇場に先駆けて開場され、娯楽を渇望していた人たちで連日大入りとなった。

■二座分裂
 戦後すぐ、文楽に本格的な転換点が訪れた。インフレと物資難の中、低賃金に苦しむ演者たちは、GHQの指導もあって組合を結成、興行主である松竹に賃上げ要求を行った。松竹はこれを拒否。当初から松竹側についた五人をのぞく、七十七人を擁した組合からは脱退する者も多数いて、松竹傘下を離れた組合側は、「三和会」を組織し自主興行に打って出た。

 これに対して松竹側は、「因(ちなみ)会」を名乗って公演を続け、文楽は二座の分裂時代に入る。昭和二十三年のことだった。

 二座ともけっして楽ではなかった。劇場を持たない三和会は地方巡業につぐ巡業。人手が足りず太夫が人形を持つこともあった。

 「公演が終わって、宿の女将に風呂はと聞くと、『前、入んなはれ』と答える。なんやっちゅうと、海が広がっているだけ。つまり、海が風呂とゆうことですわ。貧乏やったからな。結局行水ですませました」(竹本住大夫)

 笑える話ばかりではなかった。二十九年二月には、三和会が美声で売り出していた大夫が脱退、因会側に。三和会がこの大夫を相手取り裁判を起こしたこともあった。

 三十一年の芸術祭公演は、そんな二座の復縁を取り持った。背山側の床を若大夫、つばめ大夫(現・越路大夫)、二世喜左衛門ら三和会側のメンバーが、そして、妹山側は八世綱大夫、十世弥七、四世伊達大夫ら因会側が受け持った。一方、人形遣いはその逆。背山側を因会が、妹山側を三和会が演じた。

 二派分裂以来八年ぶりの合同公演が実現した。反目しあった二つのグループをひとつの舞台に乗せるには「妹背山婦女庭訓」以外の演目はなかった。裁判ざたになった太夫も共演したのだから、両派の力の入れ方は尋常ではなかった。これまでのしがらみを、舞台の吉野川の激流で流し去るかのような激しい舞台だったという。

 「舞台の上はいつでも戦いです。でも、あのときは特別に熱が入りましたな。聞いているお客さんは、なおさらだったでしょう」

 竹本越路大夫はその日のことを、こう回想する。

 

■協会誕生
 以後、松竹はたびたび合同公演を企画した。しかし、娯楽の多様化で客の入りは次第に悪くなっていった。

 因会が興行していた道頓堀文楽座は三十一年の開幕以来、三十四回の公演を行い、黒字はわずか三回。あとはばく大な赤字だった。(佐々木英之助『いまはむかしの物語』から)。一方の三和会の自主公演も状況は同じで、出演者より客の方が少ないということもあった。

 加えて、映画産業の黒字を文楽につぎ込んでいた松竹自体が、映画の斜陽時代を迎えて経営が苦しくなっていた。そして三十七年、文楽はさらに大きな流れに身をゆだねることになる。

 その年の暮れの深夜、一台の黒ぬりの車が因会の人形遣い、吉田玉男の自宅に横付けされた。玉男を乗せた行き先は大阪市東区(現・中央区)馬場町のNHK大阪放送局。そこには因会、三和会の重鎮が顔をそろえていた。

 「松竹が文楽を手放します。財団法人を作り引き継ぎますが、つきましては両派合同してもらえますか」

 NHK調査役の佐々木英之助(後の初代文楽協会事務局長)がおもむろに切り出した。

 「薄々は感じとったけれど、ショックでしたな。そこにいただれかが、松竹に捨てられるっちゅうことですなというたのを、覚えています」(玉男)

 松竹は文楽を手放すにあたり、政治家などに働きかけ、公的機関による経営の肩代わりを要請していた。国、大阪府、大阪市、NHKなどが出資、財団法人をつくり、演者はこの財団法人と技芸員として契約を結ぶことになる。文楽はここで国の保護の対象となった。

 「文楽協会」は三十八年四月、スタートしたが、すべてがすんなりといったわけではない。発足記念公演の初日、楽屋にしつらえてあった人形のカシラが抜かれて壊されるという“バラバラ”事件が起きた。急きょ、あるだけの人形でできる別の演目に差し替えて幕を開けた。壊したのが、協会のやり方に不満をもった人形遣いとわかり衝撃が広がった。時代の変わり目に生まれた事件だった。

 

■21世紀を前に
 文楽は今、中央区日本橋に開設された国立文楽劇場を拠点に公演を続けている。この四月には、劇場開場十五周年を祝って記念公演が行われた。演目は、奇しくも四十三年前の東京・新橋演舞場と同じ「妹背山婦女庭訓」だった。

 あの日のように舞台上手と下手に床が設けられ、太夫の掛け合いが喝さいを呼んだ。違うのは、三和会と因会の大同団結を経て、文楽が二十一世紀を迎えようとする時点での記念公演であることだった。

 かつて、浄瑠璃は人々の教養の一部だった。文楽はそうした文化地盤に支えられて発展した。日常生活から浄瑠璃が消えてしまった今、海外公演では常に絶賛されても、大阪で生まれた文楽を、大阪人ですら知らないという厳しい現実がある。文楽に門閥はない。栄達をつかむのは稽古次第。二十人の人間国宝を生み、竹本住大夫、吉田玉男ら五人は現役で活躍している。芸の質はこの百年、衰えをみせていない。

 二派合同の「山の段」のときも、今回の十五周年記念公演も操る人形は違うが舞台に立った玉男は「文楽は綿々と続いてきた伝統芸能です。言葉がわからない外国人すらとりこにする。だから、日本人がわからないわけがありません。まずは劇場に足を運んでもらわなければ、未来はないと考えます」と話す。

 激動の二十世紀、何度も存続の危機を乗り越えて生きぬいてきた文楽は、四百年の歴史を経て新しい世紀を迎える。

 =敬称略、肩書は当時





■文楽の歴史         

1600頃  京都で人形浄瑠璃成立      

1684   竹本座創始           

1734   人形の三人遣い始まる      

1800頃  植村文楽軒人形浄瑠璃の小屋を開く

1884   彦六座開場、文楽座に対抗する  

1909   文楽座、松竹合名会社に興行権移る

1948   三和会、因会と二座に分裂    

1963   文楽座、松竹の手を離れ文楽協会へ

1984   大阪・日本橋に国立文楽劇場開場 


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